今年のGWは静岡へ。静岡といっても、伊豆や富士山といったメジャー所では無く、普段は気にはなっていてもナカナカ寄れずに高速で通り過ぎてしまうトコロをぶらぶらしてきました。
- 日程; 2016/05/01(日)~02(月)
富士山本宮浅間大社
まずは各地に鎮座する浅間神社の総本山、富士山本宮浅間大社へ。人少なく青空の朝イチ神社で清々気持ちいい。
富士山本宮浅間大社のご神体は当然、富士山だが、現在の祀り神はコノハナノサクヤビメ。記紀にある、火中出産の説話から火の神とされ、山神である父から火山である富士山を譲られた話や、富士山本宮浅間大社に残る「コノハナノサクヤビメは水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られた」との伝もある。また、この辺りに伝わるかぐや姫の物語では、かぐや姫は最後に月に帰るのでは無く、富士山に登って忽然と消えてしまうことになっていて、コノハナノサクヤビメとかぐや姫を結び付ける話も多々存在する。命の源である優しい水の恵みも、噴火で全てを焼き尽くす災いも、富士ノ山の行いだ。火と水の両面を持つ美しき女神として、コノハナノサクヤビメが富士ノ山と重なり、かぐや姫とも通ずるのも無理もない話だ。
富士山を祀る富士山本宮浅間大社はやがて、関東武者の崇敬を集めるようになった。源頼朝公が始めたと伝わる流鏑馬奉納、徳川家康が寄進した現在の社など、今に繋がるモノがある。
二階建ての変った造りの本殿も興味を引くが、一番のお気に入りポイントは富士山からの伏流水が湧く湧玉池。透明度の高い水がとめどもなく湧き続けている。昔はこの水で心身を清めてから霊峰富士山に向かったそうだ。現在の富士山山頂にある浅間神社は、富士山本宮浅間大社の奥宮となる。
富士宮 江戸屋
朝飯前の拝杜だったので、次はモーニング。 はじめ、富士山本宮浅間大社前の江戸屋本店でシャッターが開くのを待っていたが、ここではモーニングは無いらしい。車で10分の城北店へ。
丁寧にサンドされたロールパンは美しく、小倉トーストは、半突き餡にシナモン少々でウマウマ。
この江戸屋さん、詩人・哲学者・随筆家の串田孫一氏をはじめ、多くの画家さんとも縁があるらしい。ギャラリーも併設されている。「山のパンセ 著;串田孫一」が読みたくなった。
三保の松原と御穂神社
富士山の世界文化遺産の一角を担う三保の松原。松林の海岸線の先に浮かぶ富士山の風景が有名な景勝地だが、あいにく今日の富士山は霞の中。それでもGW、我々と同じように多くの人々が観光に訪れ賑わっている。
御穂神社〔みほ神社〕の祀神はオオクニヌシとなっているが、神社創建と共によくわからない。ともかく、神様(おそらく夫婦)は羽衣(=天の羽車)を使って、突然と三保の海岸線にやって来た。そして松並木(=神の道)を抜けた場所(=御穂神社)に鎮座したようだ。この話から御穂神社は、海の彼方の「常世国」から神を迎える常世信仰に基づく神社のようだ。
浦島太郎(海岸)、竹取物語、徐福伝説(富士山)、羽衣伝説(羽衣の松)と、この辺りに伝わる伝説の共通キーワードは、常世の国、不老不死 、マレビトか。時代や想いにより、ひとつの正解がある訳ではないが、広がる海原と富士の山が身近に在るコトの影響は多大であろう。
出雲(島根)のえびす様(コトシロヌシ=オオクニヌシの長男)も美穂神社〔みほ神社〕だった事を思い出す。現在、三保の松原や御穂神社のある三保半島は、上空からだと、たわわに実った「美しい穂」 にも見える。
草薙神社
三保の海岸から日本平の北側の緩やかな斜地に建つ草薙神社へ。草薙と言えば、三種の神器のひとつ「草薙の剱」。スサノヲがヤマタノオロチを退治して手に入れた天叢雲剣。やがてヤマトタケルの手に渡り、東征の際に火難のヤマトタケルが剣で草を薙ぎ払い、向い火を放って難を逃れた。その後、天叢雲剣を「草薙剣」と称するようになった。 そのヤマトタケルが火難にあった場所が、この草薙の地だったとも伝わっていて、現在、熱田神宮に納られるている草薙の剣は、一説にはこの草薙神社に奉納されていた時代もあったとも伝わる。
そんな由緒ある神社だが、GWと言えども訪れる人影少ない緑に囲まれた小さな社。今はヤマトタケルよりも、秋祭りの「龍勢(流星)煙火」 打ち上げ花火がテレビで紹介される事が多いようだ。草薙周辺には数多くのヤマトタケルに由来するポイントがあるらしい。草薙駅の方に降りてゆくと大きな一の鳥居があった。今は山間の小さな神社だが、かつては、広大な域を誇っていたようだ。
芹沢銈介美術館
静岡の街から海岸に向かう途中にある弥生時代の集落・水田遺跡の登呂遺跡。その横に石、木、水という天然素材で造られた近代的な建物が芹沢銈介美術館。染色家、そして「民芸」の 父、芹沢けい介氏は静岡生まれだそうだ。目黒の日本民芸館は、芹沢氏の作品展示が中心だが、こちらでは、芹沢氏の紅型作品をはじめ、氏が世界各地から集めた民芸コレクションも展示されていた。
町田にあった芹沢家も移築されている。こじんまりとした質素な家だが住みやすそうだ。でも、この何倍もの倉庫が必要だったのでは?
今日の宿は遠州森の「ならここのキャンプ場」。遠州森も新東名が開通したことでアクセスが楽になった。それでもキャンプ場のチェックインは16:00までなので、高速を降りたら急いで食材の買い出しを済ませキャンプ場に向かう。チェックインを済ませたら、テントも張らずに、すぐさま来た道を取って返し、美味しい処のしばちゃんマーケットへ。
しばちゃんマーケット
洒落たスタイルのしばちゃんマーケット。広角の明るい谷合だが、里からは奥深い場所。それでも、ここだけ若者や子連れのファミリーが集っている。 美味しいアイスクリームはミルクジェラートぽい食感で、自然の優しさを味わえる。ホットミルクも頂く。こちらも天然の甘味が美味しい。
ならここキャンプ場 & ならここの湯
陽が山にかくれはじめてからテント設営開始(笑)。車横づけの区割りされたオートキャンプスペースなので、手慣れた二人がかりで30分とかからない。 夕食を作って食べて、キャンプ場併設の♨温泉;ならここの湯へ。この温泉、キャンプ場のおまけとなめてはイケナイ。塩系の湯ながら、ぬるぬるしっとり感が非常に高い。広めの露天も堪能できる。
ならここの湯上りに しばちゃんマーケットの牛乳をごくごく。テントに戻り、焚火をしなが今度もやはり、しばちゃんマーケットのデザートを頂く。大騒ぎする者もない静かなキャンプ場の夜はふけゆく。
川のせせらぎが心地よい目覚めをとなる朝。朝食を済ませたら早々に撤収開始。「一番最後に着いて、一番最初に出発する変なキャンパー」となる。
小國神社
時々、山や海でなくてもシビレる場所がある。小國神社もその手の場所だった。たとえ巨大杉の参道や立派な社がなくても、この森はヒトの奥底を揺さぶる。
春に奉納される、十二段舞楽(重要無形文化財)は、宮内庁の雅楽とは異なる面もある民間伝承の楽、また訪れなければ。
本殿の脇に生えるひょうの木。社の解説によると『学名は、檮 (イスノキ)。「古事記」に登場する櫛「湯津津間櫛」の「ゆつ」に由来する名で、古くは宮中で使われる櫛の材料にされていました。その葉には「まゆ型」の殻(木質化)になる特質があり、小さな穴が開き、笛のように吹くと「ひょう」という音が出るので「ひょうの実」と呼ばれています。「ひょうの木」にまつわる話には、オオナムチが「ひょうの実」を吹いたところ、その美しい音色に感銘を受けた女神が現れ、契りを結んだという古い言い伝えがあり、以来当社では「恋愛」「人間関係」「仕事」など様々な「縁を結ぶ」御神木として信仰されています。』とある。地面を探すが、見つからなかった。
昨日の御穂神社もそうだが、遠江(遠州)には出雲の神を祀る神社が多い。小國神社の祀り神は出雲大社と同じくオオナムチ(≒オオクニヌシ≒大黒様)。神代創建と伝わるが、不明な点も多い。「小国」という社名は、出雲の「大国」に対する遠江の美称であるとも伝わる。古代の出雲と遠江の関係は、学術的なモノは無いようだが、例えば地名:出雲の稲佐(の浜)と遠州の引佐〔いなさ〕、例えば出雲弁と遠州弁に共通の言葉が多いなどの指摘もあるそうだ。はるか昔、両国にはなんらかのつながりがあったのかもしれない。
森の茶 太田茶店
太古の森から町に向かうと、山間のお茶屋さん~森の茶 太田茶店に朝から行列ができている 。 確かに遠州森の道沿いには多く茶畑があったが_ あぁ、今日は五月二日。八十八夜の新茶が目的の行列なのだ。この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするとも云われている。早速、我々もあやかる。
龍潭寺と伊井谷宮
龍潭寺は、徳川四天王の井伊直政、そしてその母であり、女領主として2017年大河ドラマの主役となった井伊直虎(次郎法師)、幕末には大老 井伊直弼を輩出した、井伊家の菩提寺。行基菩薩によって開創され室町時代に禅宗のお寺になったそうで、小京都という言葉がぴったりの禅の律が整った古刹。龍潭の「潭」は水をを深くたたえる「淵」だそうだ。
城造りのような山門から石段を登ってゆくと、新緑と木漏れ日の素敵な石畳だった。余分なモノを廃する禅宗寺らしいおもてなしなのかもしれない。
本堂の片隅に優しい笑顔の「ほほえみ観音」と呼ばれる十一面観音がまつられている。織田信長が比叡山を焼き払った際に、琵琶湖湖底に隠された観音さまを、江戸時代に漁師がたまたま網にかけた。それを近江の殿様が龍潭寺に奉納したと伝わっている。伊井直政は、遠江(都から遠い江:浜名湖)から、近江(都に近い江:琵琶湖)の 初代藩主になり、その後、幕末まで伊井家が彦根藩主を担った。伊井家は、よほど「水」と関わりがあるようだ。
東海一と言われる龍潭寺の庭園は、きれいさびの小堀遠州の手によりもの。閉ざされた空間である裏庭を無限を思わせる空間に仕立てている。枯山水の白砂では無く、実際に水がはられた心字池は、当時の禅宗の庭の手法だそうだ。
伊井家の墓前を抜けると、龍潭寺の建つ丘の別斜面に坐す伊井谷宮に通じている。伊井谷宮は、公家(南朝)と武家(北朝)が覇権を争った南北朝時代、後醍醐天皇の皇子である宗良親王を祀る宮。時代に翻弄され流転の生涯をおくった皇子は歌人としても名を残している。伊井家との関係も深く、南北朝時代の井伊道政は宗良親王の元に参じて南朝方として挙兵、井伊城に招いて保護したとされ、宗良親王の子・尹良親王もその時に井伊城に生まれていると伝承されている。実際には古杜という訳ではなく、明治維新の時代に建武中興に尽力した人々を祀る神社として創建された社の内のひとつの社だそうだ。
天白磐座遺跡と渭伊神社
龍潭寺からは車で5分ぐらいの場所だが、カーナビが無ければ判りづらい渭伊神社(いいじんじゃ)。祀り神は 八幡の神々とモロード様(マレビト-カミ)となっているが、やはり 創建と共には不明な点が多い。古い記録では「遠江国正六位上蟾渭神」の記述があり、これが古渭伊神社のようで、蟾渭神の「蟾〔ひき〕」はヒキガエルを差し、カエルは水神の化身であり、また「渭〔いい〕は川を指す文字だ。実際、神社の横には、この伊井谷を潤す伊井谷川へ注ぐが神宮寺川が蛇行し、社の北西南を取り囲むように流れている。この谷の庄;井伊家自体の発祥が井戸に捨てられていた子を神主が拾ったとも伝わるので、井戸や川といった「水」を祀っているようだ。いい社なのだが、ちょっと乱雑で残念。
しかし、その裏にある小山に登ると様相は一転する。しめ縄がなくても、神聖なエリアである事をふつふつと感じられる場所~天白磐座遺跡。森の中に巨石がゴロゴロしていて、そのひとつひとつが神が降り立つ磐座のようだ。実際、古墳時代以前から平安中期までの長い期間、祭事が行われた遺痕が発掘されており、日本有数の古代祭祀跡とされている。しかし、下に建つ渭伊神社のご神体と言う訳ではないようだ。渭伊神社は元々は、先ほどの龍潭寺境内にあった社だそうで、南北朝の混乱時にここに移されたとあるからだ。
天白磐座遺跡の岩は、石灰岩では無くチャートと分析されている。チャートと言えば石器。この近くには大小の鍾乳洞が点在していて、その内の根堅洞窟からは、浜北人と呼ばれる旧石器時代に属する化石人骨が見つかっているそうだ。どうやら遠州の歴史は、おそろしく長いようだ。
鰻
予定で浜松の街で「ウナる」予定だったが、お腹が空いてしまった&よさげなお店があったので奥浜名湖の鰻を頂く。
奥浜名湖 鰻いしかわ 関西式のうなぎ屋さん。好物の白焼きは関東では、なかなか美味しい白焼きに出会えないのでここぞと頼むと、パリパリ表面にしっかりした身がうまうま!レモンしょうがで初めて食したが、こちらも美味しかったです。
うなぎパイファクトリー
すっかり浜松の観光地となったうなぎパイファクトリー。「夜のお菓子」は浜松の工業団地の一角で製造されていた。広い製造ラインをガラス越しに見学できるのだが、働いている人が動物園状態でちょっとかわいそう。
GWの人出で、うなぎパイカフェは行列になっていたので諦める。お土産のうなぎサブレを買って帰路についた。
今回、軽く巡っただけでも伊井谷、遠州森には古代から続く歴史があった。美味しいものも沢山あった。普段、気にしていても通り過ぎてしまうエリアだが、まだまだ奥は深そうだ。