後の京都;平安京、奈良;平城平、橿原;藤原京などと比較すると、はるかに狭く山や丘が入り混じった、けしてフラットでは無い地で日本の国家や文化の礎となる飛鳥時代は始まった。その飛鳥時代初期から中期にかけて日本の歴史上、稀有ともいえる石の文化が花開する。古墳時代から続く大石を使った墳墓、水をコントロールするための石、そして目的不明で、たとえ古代と言えども日本的なデザインとは大きくかけ離れている石造物と呼ばれるモノが数多く発見されている。今回は、そんな「飛鳥 石の時代」の跡を自転車で巡ってみました。
- 日程; 2014/11/23(日)
岩屋山古墳
早朝の飛鳥駅でママチャリをレンタルして散策開始。さっそく線路を渡り岩屋山古墳へ向けてペダルを踏む。民家の間を抜け丘の石段を上ると岩屋山古墳が、あまりにも無防備に口を開けていた。
横穴式石室のため、10m以上ある玄室までの通路(羨道)も精度高く切り出された大岩がぴったりと組み合わさっている。 最奥の玄室は少し天井が高くなり、壁上段の岩は少し内側に傾斜して組まれている。また、羨道口には閉塞岩用の溝や、石室中央には排水溝の加工が施されているなど、とても手の込んだ作りだ。
岩屋山古墳の埋葬者は、斉明天皇との説が有力であったが、次に巡る牽牛小塚古墳の再調査(2009年)により、その説は影を潜めたようだが、当時の権力者の墳墓であるのは間違いないであろう。
石室から出る。目の前にはのどかな秋の山里の風景が広がっている。墳丘は綺麗に草刈りされ、公園のようだ。観光向けの面もあるが、近隣の人々にとって幼い頃から慣れ親しんだ場所を愛しむ気持ちがあるように思えた。
牽牛子塚古墳
岩屋山古墳の西、少し山深い牽牛子塚古墳へ。2009年の再調査により、元型は底面を八角形とする石積みピラミッドで、八角形の対辺の長さは22mと大型の石造墳墓だった事が判明した。牽牛子とはアサガオの別名だそうだ。「アサガオの花は六角形~」と想像したら、これは中華文化圏での名称で、朝顔の種が薬として非常に高価で珍重された事から、贈答された者は牛を引いて御礼をしたという事らしい。実際、牽牛子塚古墳も以前は「アサガオ塚古墳」と呼ばれていたそうだ。
墳墓全体がシートに覆われていたが、岩屋山古墳と違い横口式の石室の為、鉄格子越しではあるが間近で石槨(棺が収まる場所)を覗き観る事が出来た。石槨に使われている大岩は、重量100トンと言われ、14kmほど離れた二上山から運ばれたそうだ。中央に仕切りを残すようにくり抜き加工された石槨_
つまり埋葬者は二人と言う事だ。
八角形墳は当時、天皇のみに許された形状であること、また、日本書紀に記述された「斉明天皇と間人皇女(実娘:孝徳天皇の皇后)を小市岡上陵に合葬した」「同じ日に皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った」の記述どおり、二人を埋葬するための仕切り付きの石槨、そして近年、牽牛子塚古墳の目の前で同時代の「越塚御門古墳」と名付けれれた新たな古墳が発見されたことにより、牽牛子塚古墳の埋葬者は斉明天皇との見方が一気に高まった。
斉明天皇は七世紀中期の蘇我氏絶頂の時代、舒明天皇の大后から皇極天皇として女帝となり、後に史上初の重祚(ちょうそ)により斉明天皇として再び天皇となった人物であり、後の時代を大きく動かす天智・天武天皇の母親である。そして、「飛鳥 石の時代」は、この斉明天皇が大きく関わっているのである_
益田岩船
牽牛子塚古墳から自転車を押して越の峠を越え、現在の住所で明日香村から橿原市に入る。切り開いて造られたニュータウンの片隅に残された丘陵地帯に飛鳥石造物の中で最大の大きさとなる益田の岩船がある。
天体観測台? 火葬墳墓? 弘法大師の石碑の台石? 誰もが、その製造目的を考えざるを得ない形状、そして巨大な益田の岩船。現在では、先に観た牽牛子塚古墳の横口式石槨を造る途中で、岩にひびが入っていた(入ってしまった)為、失敗作として放棄された説が有力らしい。確かに益田岩船の天面の二つの穴は牽牛子塚古墳の仕切り付の石槨と同じ作りのように思えるし、立地も丘を挟んだ反対側だ。
酒船石
飛鳥の都があった狭い平地の東側、接する小山の頂上近くに在る酒船石は、なんの囲いも無く無造作に放置されているようだ。謎を呼ぶ石板に刻まれた窪みと溝は、いかにも論理に基づき何かを製造する装置のようにも思えてくる。この不思議な岩板を何に用いたかは不明だが、実は酒坂石は二つ発見されている。この、飛鳥に在る「岡の酒船石」と、飛鳥で発見され、今は京都の碧雲荘に在る「出水の酒船石」だ。 飛鳥資料館に「出水の酒船石」のレプリカが展示されていたので、それを視ると、ツーピースの構造となっていて、一つ目は岡の酒船石に似た平らな岩面に窪みと溝が加工されて、もう片方の岩は縦長方向に深く溝加工が施されたされた岩樋だ。これを視ると酒船石は目的は不明だが、水を流していたモノのようだ。
石人像・須弥山石
飛鳥時代に噴水があったのは驚きだが、世界的に観れば既にメソポタミア文明の時代から実用されていたそうなので、なんの不思議でもないそうだ。日本は綺麗な川や井戸水が豊富なうえ、あるがままをよしとする文化だったため、飛鳥時代以降、近代まで意匠目的の噴水はほとんど登場しなかった。
この噴水石造物は、製作目的が「おもてなし」と、ある程度特定されている。これれの石造物が発見された石神遺跡は、斉明天皇が外国の使節や蝦夷(えみし;国内の遠方の民)らを饗する目的で作られせた「飛鳥の迎賓館」だった。
動力が無くても噴水する構造は、ちゃんと物理的に考えられていて、加工技術も1300年前とは思えないほど高く、噴水口の径は約2cmの綺麗な丸穴だそうだ。須弥山石は、仏教の世界観で世界の中心にあると言われる須弥山を抽象的に表しているが、石人像の方は、老男女の姿をデフォルメし微笑ましく表現しているが、それはまったく日本的な趣きでは無い。
これらの石造物を制作したのは。渡来人と云われている。「須弥山と呉風の橋を御所の庭に築くことを命じられた」と日本書紀に記された、渡来人、路子工(みちこのたくみ)別名;芝耆摩呂(しきまろ)といった名工や技術者の手によるものなのだろう。
奈良県立万葉文化館で天理大楽部の方々が、丁度、伎楽を演じていた。 伎楽のルーツは現;中国南部に在った呉国と云われるが、日本に伝わったのは、石の時代と同じ頃、百済人;味摩之(みまし)が伝えと云う。
倭国と同盟関係にあった百済からは、古墳時代から人の行き来があったが、660年(日本は斉明6年)の百済滅亡前後には、多くの百済の人々が日本に亡命してきた。渡来した人々はの中には、貴族階級の者も多く、最新の大陸の文化や知識・技術を日本にもたらし、多大な影響を与えたことであろう。
亀形石造物
2000年、酒船石の在る丘麓を発掘調査したところ、新たに大規模な遺構が発見され、特に亀形石造物と小判形石造物は、斉明天皇の時代から平安時代まで、明らかに水を流した石造物として注目を集めることとなった。
斉明天皇は「古の道に従って政を行なった」と日本書紀に記されている。また、「蘇我蝦夷やお坊さんが雨乞いをしても一滴も雨が降らなかったのに、天皇が雨乞いをすると途端に大雨が降りだした。」ともあるので、斉明天皇を水の神;ミズハノメの巫女的な力をもっていたとの説もある。真偽は解らないが、水をコントロールして流すことを好まれたのは確かなようだ。当時、水をスムーズに、そして神々しく流すには石材が最適だったのであろう。折しも当時、百済から多くの人々と技術が日本に渡って来た。その技術や匠の技を用いて、宮の庭を優雅に流れる水や、祭事や神託を下す水を演出したのであろう。
しかしそれは、民にとっては重い労役となった。「天皇は工事を好まれ、香具山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟200隻に石上山の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に石を重ねて垣とされた。当時の人はこれを非難した…」この「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」と呼ばれた工事に費やされた人夫は三万余、垣を造る工事に費やされる人夫は七万。当時の日本の人口は450万人ともいわれている時にだ。
飛鳥水落遺跡
671年に中大兄皇子が作った日本初の漏刻(水時計)の建物跡だそうだ。建物や時を刻む桶は木製だった為、既に原型は無いが、石を張った基礎部分が見て取れる。水で正確な時を計る場合、床の傾斜は安定していなければならない。その為に堅固な基礎が造成されたのであろう。
二面石・猿石
聖徳太子ゆかりの橘寺。その参道脇にある二面石。人の善悪を表裏で示したと云われるが、喜哀の二面にも見える顔だ。近年ここへ運ばれてきたモノなので、聖徳太子とは特に関係が無いらしい。
飛鳥駅の傍、吉備姫王墓にある猿石も二面になっている物が多く、庭園のオブジェだったのか、鬼瓦のような魔除けだったのか、こちらの石造物も用途は定かでは無い。
亀石
亀石は一般民家と畑の間に野ざらしで、公園の遊具がそこに一つだけ取り残されている様だ。他の石造物と比べ学術性が無いのか、あまり調査研究がされていない亀石は、制作年代、目的や用途が特に不明な石造物だ。顔と尾の部分だけ人の手により加工されたもので、甲羅(背中)の部分は天然のままのようだ。その為、他の飛鳥の石造物とは趣きが随分と異なり、made in Japanを感じる。亀石の名称だが、自分にはカエルにも見えてかわいらしい。
学術的には魅力がないのかもしれないが、人里にあるため、民の間では「亀石の向きが変ると奈良盆地が泥の海となる。」といった伝説が生まれるほどの人気者だ。
今回巡った古墳や石造物の多くは、物部氏が倒され、蘇我氏や聖徳太子の仏教布教による、のちに飛鳥文化と呼ばれる日本最初の仏教文化最盛の時代か少し後に造られたモノと推定されている。そんな時代に天皇となった斉明天皇は、ともすると蘇我氏や中大兄皇子のお飾りだったと揶揄されるが、実は政りより祀り担当の最後のシャーマン的女王だったと言う説も、あながち否定はできないと思う。
当時の仏教は民間信仰ではなく、国家のための仏教だった。鎮護国家を名目に外交上体裁を保つのが主な目的だった。一般的な民や、おそらく宮に住まう人々の多くも、根底にあるのは、今の多くの日本人と同じように八百万神の方が近い存在だったようだ。斉明天皇の「古の道に従って~」が、道教なのか神道・鬼道なのかは研究者に任せるとして、仏教では無いモノを信念とし、流れる水を演出するために石と渡来人の技術を使った女王だったようだ。
初めて飛鳥の石造物に興味を持ったのは漫画だった。「三つ目がとおる:手塚治虫」では、酒船石は古墳を造るための奴隷を服従させるために用いた薬品の調合台、二面石はその調合書。また益田の岩船は「暗黒神話:諸星大二郎」では、武内宿禰の長期生命維持装置だった。それから何十年_様々な調査・研究が進み、自分も少し学がついたが、この時代の事は、まだまだ不明な事ばかりなので、自由に想像の世界に入る事が出来る。時々は漫画を夢中に読んだ頃のように、色々と妄想するのも楽しいものだ。
今回、レンタサイクルで飛鳥を巡ったが、石造物以外にも見所が多い場所なので、1日では時間が足りず、石舞台や猿石まで観れなかった。また訪れなければ!